麻歩の、寝たり食ったり喋ったり

社会人のコスプレをしながら暮らす、スーファミ世代の明るい引きこもり投資家のブログです。当ブログは、広告やプロモーションを含む場合があります。

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「ザ•正月モード」な空気が嫌いだ。早く平日になって欲しい

義務感から来る義理をなくしたい

 日本古来より根付く、伝統行事や礼節などは、あってしかるべきで、なくならないほうがいいとは思うが、この、ザ•正月!的な、世間の浮かれた空気がどうにも苦手だ。

 派手な衣装で椅子に座る成人たちのイラスト

 年末だから、大掃除しなければならない、とか、年明けたから、偉い人に挨拶しなきゃいけない、とか、考えると色々面倒くさい

 

 お歳暮や年賀状なんかもそう。 

 

 好きでプライベートで関係を持ちたいと思っている家族•友人などは別だが、たまたま社会的コミュニティが一緒になっただけの、自分とは全く波長の合わない赤の他人に、どうして気を遣わなければならないのだろう?

 

 心からそれを送りたいと思っていないなら、送らなくてもいいのではないだろうか。

 

 同様の理由で、義理チョコ、お中元も もいらないと思う。

 

 クリスマスハロウィンなどの、リア充やパリピが大量出現する街中も、やっぱり苦手で、イベント時期になると、なるべく外に出ないように、厳重に引きこもってしまう。

 

 そもそも、どうしてみんな同じ時期に、祝ったり、休んだりしなければならないのだろう。

 

 それぞれ人数をばらけて、少しずつ別々にやれば、お店が休みで使えないとか、混雑しすぎて苦痛とか、そういったトラブルも避けられるのに。

 

 元旦も、買い物したいし、ゴミを捨てたいです。家は狭くて、スペースがそんなにありません。 

 

 そんな状況で、今ゴミ袋が部屋を占拠しています。休暇で時間があるからこそ、部屋を掃除したくなりますよね?

 

 掃除したら、掃除に使ったあれやこれや、捨てたくなりますよね?

 

 結果ゴミ袋が大量発生します。これ至極当然です。

 

 収集業者さんも、長期休暇を取りたいのは分かります。

 

 が、分散して取ってくれたら、その間少しペースダウンしてもゴミを普通に捨てられるのに、街は混雑しないで済むのに、ソーシャルディスタンス保てるのに、と思ってしまいます。

 

親戚の集まりにも疑問

 親戚同士の集まりもどうなんでしょうか。

 

 本当に、心から付き合いたくて、挨拶したくて行くならいいと思いますが、例えばお姑さんにいじめられてるお嫁さん

 

 行きたくないなら、無理して義実家に行かなくていいと思います。

 

 こちらが気を使って和やかな雰囲気を演出しても、やれ子供はまだか、日中は何してるんだ?もっと顔を出さないか、はたまた容姿や夫婦生活にまで口を挟まれる始末。

 

 そんな状況を我慢してまで付き合いを続ける意味ってあるんでしょうか?

 

 某王室のお妃様が、自身の置かれている環境に我慢ならず、皇室を離脱されたことが話題になり、様々な意見が交わされました。

 

 良い悪いの議論はさておき、王室という格式高い身分さえ、嫌だという理由で離脱できてしまうのだから、いち一般家庭の嫁が、◯◯家の嫁を離脱しても、許されるのではないでしょうか。

 

 王室と比べたら、どんなお家も、きっと平凡で大したことないです。

 

結局何が言いたいのか

 こういうことを書くと、社会不適合者!日本の伝統が…などと怒られてしまうかもしれませんが、わたしが言いたいのは、限られた人間の寿命の中で、尊敬できない、好きになれない、足を引っ張ってくるだけの人間に合わせて自分を犠牲にする必要があるのか、という事です。

 

 わたし達は、会社が、学校が、家庭が、与えた役割を、無理して演じようとしてしまいます

 

 それは、社会で生きていく以上、必要な行為であるし、そうすべき場合も多いですし、そうすることによって、社会が成り立ち、生活の糧を得、余計なトラブルを避けることができます。

 

 ですから、それら全てを全否定するわけではありませんが、と同時に付き合いたくない人と付き合わない自由も認められるべきではないでしょうか。

 

 例えば、会社の飲み会。参加しないことで、不利益が一切ないことが保証されていたら、一体どれだけの人数が参加するでしょうか。

 

 同様に、やたらと金銭を要求してきたり、精神的に支配しようとするような親族等とは、バッサリ縁を切っても責められない、そんな社会があってもいいと思います

 

 もちろん、縁を切るなら金銭的支援などは一切受けないなど、一貫した態度が必要とは思います。

 

真の自由を追求した生き方

 ここで一冊の本を紹介します。

 

 書いたのは、昔のフランスの哲学者、ミシェル・ド・モンテーニュさんで、市長になった事もある人物です。

 

 その方が書いたエッセイ『エセー』、とてつもなく長く、一般の方で読破するのはなかなか難しいと思うのですが、そのエセーの面白いところを、厳選して日本語で、宮下史朗先生が解説付きで集めてくださったのがこの本です。

 

 

 読んでいて、今日書いたテーマと関係があり、グサグサと刺さる部分が多かったので、取り上げさせていただきました。

 

 人間誰でも不完全な部分があっていいじゃないか、とか、与えられた社会的役割を演じる必要はあるが、それ自体を自分だと思う必要はない、とか、自分自身と向き合う、完全に1人になれるプライベートな空間を持つ事の重要さや、野心とプライバシーは両立できない、とか、現代のわたし達にも通ずるものがあります。

 

 教養豊かな方で、様々な思想家からの引用も含まれるようです。

 

 人の迷惑を省みず、何もかも、自分の気持ちのいいようにしかやらない、と言うなら違いますが、自分を縛っている鎖のようなものに気付いて、仮面を外し、本当の自分として生活する時間が必要方は多いかなと思いました。

 

 保守的で閉鎖的な、国に仕えてこそという、今とは違う時代に、このように自己を認識し、大切にするべきだと主張できるって、すごく強いことのように思えます。 

 

 そのため、良く思われない事もあったようです。

 

 生き方の多様性が、一部の人を弾圧するような形ではなく、共存が当たり前になっていけたら理想的ですね。

 

 面白いと思ってくださった方は、ぜひ読んでみてくださいね。

 

 それでは、また。

 

 

P.S. こことは別に、書くことが好きで、手書きで5年日記を個人的につけているんですが、去年の元旦の日記を見たら、

 

「新年の挨拶まわりが面倒くさいからお正月の空気早く終わってほしい」

 

って書いてあって、自分のブレなさに笑ってしまった。